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開国幕末悲劇の女性を供養
お吉祭り
静岡県下田市

2018420日制作

芸者衆による献花
毎年3月27日に執り行われる、幕末を生きた一人の女性の法要祭。



お吉が淵

お吉が淵の祠
お吉が淵の祠にある石碑
供養が行われるお吉ヶ淵は、下田の街から稲生沢川を遡ること3km少々。蓮台寺駅の上流700m程の場所で、国道414号線「お吉ヶ淵交差点」近く。
お吉が身を投げた川の流れは、今は河原の小さな池になっている。

ウクレレデュオ演奏

僧侶による読経

芸者衆のお参り

勢ぞろいした芸者衆
お吉ヶ淵での法要祭
まずは、お吉が淵で「法要祭」が行われる。
お祭りの説明があり、お吉のことを歌ったウクレレデュオの演奏。
続いて読経、そして下田の芸者衆による献花。淵に向かって花を投げ入れる。
そして、お吉と恋人・鶴松に見立てた2匹の鯉を放流する。

放流される鯉

鯉の放流


宝福寺でのお吉法要
宝福寺での法要祭
その後、お吉のお墓がある宝福寺に場所を移す。
来賓の挨拶の後、墓前への献花。
唐人お吉の歌を歌った歌手や、芝居にて唐人お吉を演じた女優からの花輪も出ることが多い。
芸能大会
献花が一通り終わると、下田市文化会館に場所を移しての演芸大会。
歌あり踊りあり、下田芸者に相応しい祭りだ。


新渡戸稲造博士が建てた「お吉地蔵」
*唐人お吉の生涯*
唐人お吉(本名・斎藤きち)は、1841(天保12)年に尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)で誕生。
下田に移り住み、琴や三味線を習って14歳で芸者となり、「新内の明烏」と呼ばれるほど美人かつ人気な芸者となった。
1857(安政4)年、日本の初代アメリカ総領事ハリスが玉泉寺で日米外交を行っていたが、異国での疲れから病に伏せってしまう。
世話ができる看護婦はいないかと下田奉行所に依頼があり、お吉に白羽の矢が立った。
彼女には許嫁・船大工の鶴松がおり激しく固辞した。
すると鶴松に、武士への取り立てを条件に、二人の仲は裂かれてしまう。
それでも固辞したお吉だが、下田奉行の熱意で折れた。
町の人は初めはお吉に同情したが、その後彼女が破格の待遇で羽振りが良くなっていくことに恨みを持つようになる。
「偉人の妾」「ラシャメン(唐人)」と、石をぶつけるなど迫害を行った。
ハリスが回復するとお役御免となり、お吉は再び芸者に戻るが、人々の視線は冷たいままで下田にいる状態ではなくなった。
酒におぼれるようになり各地を転々とする。
1867(慶応3)年に芸者を辞め、横浜でかつての許嫁・鶴松と再会して同棲する。
髪結い業を始めるが、酒癖の悪さからすぐに破局。また芸者として下田へ。
身の上を案じた人が資金を出して小料理屋を出せたが、勝気な性格と酒癖の悪さで2年で廃業。
その後は「声の良くなる薬」といわれた線香をかじりながら、物乞い同然の生活となった。
そして1890(明治23)年、稲生沢川(現在のお吉ヶ淵付近)に身を投げて波乱万丈の生涯を49歳で終えた。
お吉の亡骸は「汚らわしい」と蔑み、生家の斎藤家も埋葬を拒否したため、3日間そのままになっていた。
それを哀れんだ宝福寺住職が懇ろに弔ったという。
1928(昭和3)年に十一谷義三郎の小説「唐人お吉」で広く知られ、1933(昭和8)年には新渡戸稲造が下田を訪れ地蔵を建立した。
「から艸(くさ)の浮名の下に枯れはてし 君が心は大和撫子」と詠んでいる。
新渡戸稲造は、教育者・思想家で五千円札の肖像でも知られ、国際連盟の事務局次長としても活躍した。
その後も日米関係強化を望むが時代は逆行。お吉地蔵を見ることなく生涯を閉じたが、両国の狭間で心情が重なったのかもしれない。
また、歌や浪曲にもなった。
1998(平成10)年には、サザンオールスターズの原由子が「唐人物語(ラシャメンのうた)」という曲を発表している。

お吉ヶ淵




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